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五輪塔形の墓が並ぶ毛利輝元の墓所

天樹院墓所

てんじゅいんぼしょ

萩藩を創設した毛利輝元の墓所。もともとここは輝元の隠居所(四本松邸)で、輝元亡き後に天樹院という菩提寺が建てられましたが維新後に廃寺になりました。竹林に囲まれた静かな場所に五輪塔形の墓が残っています。  
毛利輝元は、天文22年(1553)毛利隆元の長男として生まれ、永禄6年(1563)家督を相続。祖父・元就(三矢の訓えで有名な戦国の武将)の後見を受け将軍足利義輝の一字を拝領して輝元と称す。元就没後は、両叔吉川元春と小早川隆景の補佐を受け出雲国から尼子勝久・山中幸盛らを追放、備前国の浦上宗景を圧迫し、讃岐国にも兵を出した。天正8年(1580)信長に追われた足利義昭を厚遇し、上洛して信長と覇を争う。同年6月、備中高松城下で講和成立直後に本能寺の変を知るが講和を守って追撃せず、秀吉の中央での制覇に好機を与える。豊臣政権下に入っては四国・九州出征において先鋒をつとめ、参議に任官。天正17年(1589)太田川口のデルタに築城を始め、この地を広島と命名。本拠を吉田郡山城から広島に移す。同19年秀吉から安芸・周防・長門・石見・出雲・備後・隠岐七ヵ国および伯耆国三郡と備中国内で120万石の知行目録を与えられ、中国にその勢を振るった。慶長2年(1597)に五大老に列せられ、秀吉の死去にあたり秀頼の補佐を委託される。慶長5年(1600)の関ヶ原の役では、自身は大阪西の丸にあって西軍の総帥とみなされたため七ヵ国を削られ周防・長門両国36万9千石に減封された。同5年10月薙髪して隠居し、家督を6歳の秀就に譲り、同9年(1604)11月築城中の萩城に移った。寛永2年(1625)萩城内で死没。73歳。

 

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