文久3年(1863)当時、尊皇攘夷を掲げる長州藩は、下関・関門海峡を通過する外国船に砲撃しました。しかし翌年、四国連合艦隊(アメリカ・イギリス・フランス・オランダ)の報復によって大きな被害を受けました。そこで、萩に残る人々も外国船の襲来に備えて、日本海に面した菊ヶ浜に約2kmの土塁を築きました。
築造には特に武士の妻や奥女中の功績が大きく、土塁は通称「女台場(おなごだいば)」と呼ばれるようになりました。この作業の際、士気を鼓舞するために唄われたのが「男なら」で、萩女の心意気を唄ったものです。
幕末から明治維新後にかけて流行した甚句で、現在、山口県を代表する民謡になっています。
男なら
お槍かついで お中間となって
ついて行きたや 下関
お国の大事と聞くからは
女ながらも武士の妻
まさかのときにはしめだすき
神功皇后さんの 雄々しい姿が
鏡じゃないかいな オーシャリシャリ
毎年2月初旬に「萩観光シーズン開き」にて、男ならが奉納されます。
萩観光シーズン開き
菊ヶ浜土塁(女台場)
現在も高さ3m、幅12mの土塁の一部が50mにわたって残り、石碑が建っています。【市指定史跡】