松陰と龍馬

松陰と龍馬

嘉永六年(一八五三)六月三日、アメリカ合衆国の東インド艦隊司令長官ペリー提督が率いる黒船四隻が浦賀沖に姿を現し、空砲をぶっ放つなど、高圧的な態度で幕府に開国を迫った。震え上がった幕府は久里浜にペリーの一行を上陸させ、アメリカ大統領の親書を受け取る。そして来年の返答を約束したため、ペリーは一旦日本から去った。

その年三月十七日、十九歳の坂本龍馬は土佐を出立して江戸に向かう。江戸に入ったのは、四月下旬か五月上旬だろう。土佐藩郷士の次男だった龍馬の江戸入りの目的は剣術修行で、藩から十五カ月間の許可を貰っていた。ただし、許可には条件が付く。もし江戸で緊急事態が起こったさいは、藩の一員として働かねばならない。

龍馬は京橋桶町にあった北辰一刀流の千葉定吉道場に入門した。ところが間もなく、ペリー来航という異変が起こる。土佐藩は幕府から品川海岸の警備を命じられ、龍馬も臨時御用の名目で動員された。おそらく龍馬はこの時、黒船を目撃し衝撃を受けたであろう。

来年ペリーが再来すれば、幕府は要求を拒み、戦争が起こるだろうと龍馬は考えた。九月二十三日、土佐の父にあてた手紙に「異国船処々に来たり候由に候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候。その節は異国の首を打ち取り帰国つかまつるべく候」と、勇ましい決意を記す。

しかし龍馬は、単純で排他的な攘夷論者ではなかった。

十二月一日には、西洋砲術の大家として知られていた佐久間象山の門下生となっている。信州松代藩出身の象山は、現在の中央区銀座六丁目あたりに塾を構えていた。外国勢力を撃退するにも、まず、敵の正体を知らねばならぬと龍馬は考えたのだろう。

このへんに、龍馬の時代に対するすぐれた嗅覚のようなものを感じる。しかし龍馬を主人公とした小説などでは、剣士の面を強調したいからか、象山塾への入門は省かれていることが多い。

そのころ、象山塾の中において、師から最も期待されていたのは、長州の吉田松陰だった。龍馬より五歳年長の先輩である。龍馬が入門したころ、松陰はロシア密航に失敗し、長崎から江戸に戻って来ていた。

松陰と龍馬の間に具体的な交流があったのか否かについては、史料が無いから確かめようがない。しかし後年、幕末史を彩ることになる二人が同じ時期、江戸の象山門下生として名を連ねていたことだけは確かである。

そして松陰も龍馬同様、ペリーが再来すれば、戦争が起こると考えていた。ところが幕府はペリーに押し切られ、安政元年(一八五四)三月三日、日米和親条約を締結する。

「腰抜け」幕府に失望しながらも、西洋文明を知ろうとした松陰が、伊豆下田からアメリカ密航の挙に出たのが三月二十七日である。しかし失敗し、罪人となった松陰は、みずからの心境を次のように詠んだ。

「かくすればかくなるものとしりながら やむにやまれぬ大和魂」

こうして故郷の長州萩に送り返された松陰は、やがて松下村塾を主宰し、高杉晋作・伊藤博文など幾多の人材を育成。安政の大獄に連座し処刑された。

象山もまた、松陰の密航を扇動した罪で捕らえられ、故郷松代に幽閉されてしまった。このため江戸の塾は、閉鎖される。

松陰の密航未遂は龍馬にとっても、身近で起こった大事件だったのだ。龍馬が、この事件を、そして先輩の松陰を、どのように見ていたかは定かでない。しかし、興味深い逸話を山口県文書館毛利家文庫史料の中から見つけた。

数年後、龍馬は松陰門下生の高杉晋作と酒を酌み交わす。そのさい晋作は師の「かくすれば」の歌を大声で吟じた。すると龍馬は、こんな即興歌で返す。

「かくすればかくなるものと我も知る なほ止むべきか大和魂」

松陰は龍馬の心の中に、強烈な印象を残していたようだ。そして龍馬も、松陰の志を継ごうとしていた一人だったことが分かる。