龍馬立志の萩

龍馬立志の萩

坂本龍馬が萩を訪ねたのは、文久二年(一八六二)一月十四日のことだ。前年、土佐藩では武市半平太を首領とし、二百人ほどが集まり土佐勤王党を結成。これに龍馬も、加盟していた。

 龍馬の旅の目的は、武市の手紙を長州の久坂義助(玄瑞)に届けることだ。久坂は藩医の家に生まれたが、時世に強い関心を抱き、松下村塾に学び、師である吉田松陰から「防長年少中第一流」と絶賛された秀才である。安政の大獄により松陰を失って以来、師の「志」を継ごうと、尊王攘夷運動に奔走していた。

 十四日、萩の空は曇っていた。久坂の日記には「土州坂本龍馬、武市書翰を携え来訪」とある。その夜、龍馬が宿泊したのは松本村の鈴木勘蔵方だが、薩摩藩士田上藤七も久坂に用があり投宿していた。現在、この場所は松陰神社駐車場の一部になっていて、「薩長土三藩士密議之処」の石碑が立ち、久坂・田上と並び龍馬の名も刻まれている。

 翌十五日、久坂の日記には「晴、龍馬来話、午後文武修行館へ遣はす」とある。龍馬が移ったという「文武修行館」は、他国修行宿のことだ(松本二郎『萩の史談雑録』)。藩が幕末のころ設けた、他国者のための無料宿泊施設で、現在、萩市江向の萩裁判所西側がその跡地に当たる。すぐ近くには「西日本一」の教育施設と称えられていた藩校明倫館があり、宿泊者はここで学問を講じたり、武道の試合を行った。

 龍馬の場合は久坂ら松下村塾生とワラ束を斬ったり、少年剣士と試合をしたという。龍馬は北辰一刀流の達人として知られていたから、武芸者として藩は受け入れたのだろう。しかし、萩の少年に敗れた龍馬は「自分が弱いからだ」と言ったと伝えられる。その場所は、現在も遺る明倫館の槍剣道場「有備館」であろう。

 龍馬の萩滞在は、二十三日まで続いた。この間、久坂らと何を話したのかは不明である。ところが萩から土佐に帰った龍馬は、三月二十四日夜、いきなり脱藩してしまう。一体、萩で何があったというのか。その謎を解く鍵は、龍馬に託された武市あての久坂書簡だ。この中で久坂は、次のように述べる。

「竟(つい)に諸侯(諸大名)恃(たの)むに足らず。公卿恃むに足らず。在野の草莽糾合、義挙の外には迚(とて)も策これ無き事と、私共同志中申し含みおり候事にござ候」

 変革の原動力は、名も無き人々「草莽」にあるという、松陰が唱えた「草莽崛起論」である。松陰はこの時から二年余り前に刑死していたが、その教えは人々の心に深く刻まれていたのだ。さらに久坂の手紙は次のように続く。

「失敬ながら尊藩(土佐藩)も幣藩(長州藩)も、滅亡しても大義なれば苦しからず」

 欧米列強が侵略の魔の手を日本にのばしている時に、藩なんてどうでもいいではないか、大局観を持てと煽るのである。久坂がここまで過激になったのは、武市が一藩勤王(土佐藩を勤王で一本化すること)に固執していたからだ。しかし考えを変えられなかった武市は、やがて土佐藩から弾圧を受け三年後に切腹させられた。

 一方、龍馬はどこかで武市の路線に限界を感じていたのだろう。久坂を通じ、「草莽崛起論」に触れるや、たちまち脱藩したのだ。それを知るや武市は「龍馬は土佐にはあだたぬ奴じゃ」と言ったと伝えられる。あだたぬとは、納まり切らぬという意味だという。時に龍馬二十八歳。松陰が三十歳で処刑されたことを思えば、遅咲きだったと言えるかも知れない。

 しかし、それからの龍馬は薩摩・長州間を奔走したり、大政奉還を提案したりと活躍する。松陰はつねに「志を立ててもって万事の源となす」と説き、多くの若者に影響を与えた。萩への旅で人生の指針を見い出した龍馬もまた、その一人だったのだ。萩の町にはいまも、そうした人を奮い立たせる不思議なエネルギーが確かに漂っている。