長州ファイブの志(5)

長州ファイブの志(5)

最後に明治以降、五人の足跡を「工業の父」と称された山尾庸三の半生を中心に、述べておこう。

山尾が、鉄道と鉱山の研究に励んだ野村とともに五年の留学を終えて帰国したのは、明治元年(一八六八)十一月(十二月とも)のことだ。すでに幕府は倒れ、天皇を頂点とする明治日本がスタートしていた。その政権の中心となっていたのは、長州・薩摩藩出身者たちである。

「たとえいま、日本に工業が無くても、人を作ればその人が工業を見出すだろう」
との信念のもと、山尾が伊藤博文とともに工部学校設立を政府に建議したのは、明治四年四月のことだ。ところが、
「山尾が、大工や左官の学校を創れと言っているらしい」
と噂かれるほど、新生日本は幼かったという。

そして、明治六年十月、工部省工学寮(のちの工部大学校、現在の東京大学工学部)が開かれた。基礎教育・専門教育・実地研究に各二年、計六年制教育の学校だ。専門教育は土木・機械・電信・造家・実地化学・鎔鋳・鉱山に分かれていた。

充実した教育内容は、教師としてイギリスから招いた二十五歳の都検兼工博士ヘンリー・ダイナーの提案を採用した結果だ。ダイナーはグラスゴー大学の出身で、山尾とも深い信頼関係を結んだ。

そして明治十三年二月、山尾は工部卿となった。

工部省は明治三年に創立され、あらゆる鉱工業の奨励をめざした。民部省所管の鉱山・製鉄・造船・鉄道・灯台・電信などを引き継いだほか、機械製作・化学工場・工部大学校などを管轄し、官営工業の中心となった(『角川日本史辞典』)。

しかしやがて、官営事業の払い下げが始まり、明治十八年十二月に工部省は廃止される。残されたのは鉄道・電信で、学校は文部省の管轄となった。

以後、山尾は参事院議官、参事院副議長、宮中顧問官、法制局長官などを歴任し、明治三十一年二月、六十一歳の時、すべての要職を辞した。山尾は風月を友として悠々自適の日々を送り、大正六年十二月二十一日、八十一歳で没した。

野村こと井上勝は明治四年八月、工部省の鉄道頭を任ぜられ、日本の鉄道創業に深く関わる。品川・横浜間の仮営業が始まったのは明治五年五月七日、新橋・横浜間の開通式が行われたのは九月十二日であった。さらに井上勝は官制の改革で明治十年一月、工部少輔に任ぜられ、鉄道局長となる。そして五月から大阪に工技養成所を設け、鉄道の高級技術者養成を行った。

こうして、京都・大津間の鉄道敷設工事は、お雇い外国人を加えず進められる。そして明治十三年六月、難工事だった逢坂山トンネルが完成し、日本人だけの手で鉄道が造れることが証明された。明治四十三年八月二日、ロンドンで鉄道視察中に倒れ、没。六十八歳。

その他、遠藤は造幣局で、造幣技術の確立に尽くした。

伊藤は初代内閣総理大臣を務めるなど、政治家として栄達を遂げた。

井上馨は初代外務大臣を務め、幕末に結ばれた不平等条約の改正に尽力した。

五人は積極的に西洋文明を取り入れ、一日も早く日本を近代化しようとした、ナショナリストである。それぞれの個性を最大限に生かし、活躍した彼らの青春は、近代化を突き進んだ日本の青春とも重なり、いまなお多くの指針を示してくれてるかのようだ。