長州ファイブの志(4)
ロンドン大学で学ぶうち山尾庸三は、イギリス北部スコットランド地方のグラスゴー行き、近代工業を学びたいと希望するようになっていた。
産業革命発祥の地であるグラスゴーは、世界一の造船と工業の町である。多くの造船所が軒を並べ、一年に二万トン分の船が造られ、その建造量は全世界の二割を占めるとされた。また、地下からは鉄や石炭といった原料が豊富に掘り出され、製品はクライド川の水運を利用して、世界中に輸出されていた。
しかし、長州藩からの仕送りは無く、山尾はその夢を断念せねばならなかった。
ところが、五人より二年遅れてロンドンに秘密留学して来た薩摩藩士が、山尾の旅費十六ポンドを用立ててくれたのだ。これにより山尾は慶応元年(一八六五)秋、ロンドンから五百五十キロメートル離れたグラスゴーに、念願の留学を果たす。
薩摩藩の一行は留学生十五人(町田民部・畠山丈之助・村橋直衛・名越平馬・市来勘十郎・中村宗見・田中静洲・東郷愛之進・鮫島誠蔵・吉田己二・森金之丞・町田申四郎・町田清蔵・磯永彦輔・高見弥一)、視察員四人(新納刑部・松木弘安・五代才助・堀壮十郎)の計十九人である。
長州藩と薩摩藩は文久三年八月十八日の政変で対立して以来、犬猿の仲である。にもかかわらず留学生たちは、ロンドンでは肩を寄せ合い、協力しながら生活していたようだ。すでに一段高い、「日本人」という視点を身につけていたのである。なお、日本で薩長同盟が締結されるのは、慶応二年(一八六六)一月のことである。
山尾を迎えたのは、グラスゴーのネイピア造船所だった。
一八六〇年に創業したネイピア造船所には、徒弟制度があった。ここで見習い工として数年働けば、技術だけではなく、帳簿のつけ方といった具体的な運営方法まで教えてくれるのだ。だからヨーロッパ各地はもちろん、中国からも造船所に多くの若者たちが集まって来ていた。
山尾は徒弟として働きながら、夜はアンダーソンズ・カレッジで工業を学ぶ。造船所での作業をさらに深く理解するため、科学の原理を学ぼうと考えたのだ。
「頭と手をもって」
が、この学校の基本方針だった。
この地のグラスゴー大学は一八四一年から、世界に先駆けて大学の教育課程に「工学」を採用していたという伝統を持つ。大学での工学教育と、造船所などでの実務を直結させるシステムが、グラスゴーには確立されていたと言われる。