長州ファイブの志(1)

長州ファイブの志(1)

本州最西端に位置する山口県は江戸時代、長州藩(萩藩)と呼ばれた。

日本海に面した萩に城が築かれ、外様大名である毛利氏が統治していた。石高は三十六万九千石である。かつて毛利氏は広島を本拠とし、中国地方の大半を領していた。しかし慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原合戦で徳川家康に敗れ、大幅に領土を削られた上、交通の便のよくない萩に封じ込められたのである。以来、徳川幕府に対する複雑な思いを抱き続けている。

嘉永六年(一八五三)六月、アメリカのペリー提督が黒船四隻を率いて浦賀沖に来航し、圧倒的な軍事力を背景として幕府に開国を求める。これに屈した幕府は、翌安政元年(一八五四)三月、日米和親条約に調印して、開国への第一歩を踏み出した。「幕末」と呼ばれる時代の、本格的な幕開けだ。

さらに安政五年六月、幕府はアメリカ総領事ハリスとの間に、自由貿易を骨子とした日米修好通商条約を締結。続いて同様の条約が、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとの間に結ばれた(安政の五カ国条約)。

しかしこれらは、関税自主権を否定し、領事裁判権を規定する日本にとって不利な不平等条約であった。また、時の孝明天皇が反対したにもかかわらず締結されたため、幕府に対する激しい非難が起こる。

長州藩領は三方が海に囲まれていたため、早くから官民共に、外敵に対する危機意識が強かった。このため文久二年(一八六二)七月、藩論を天皇の意思である外国排撃、「攘夷」で一本化する。

長州藩は朝廷と結び付き、勅使を江戸に送って幕府に攘夷を督促した。これに応えるため、文久三年三月、上洛した将軍徳川家茂は賀茂行幸に供奉させられたあげく、攘夷実行の期限を五月十日にすると、奏上させられてしまう。すでに諸外国との間に、開国の条約を締結しているにもかかわらずである。

こうして五月十日がくると、長州藩は関門海峡を通航する外国艦を、下関(馬関)の砲台から次々と砲撃した。しかしフランスやアメリカ軍艦の反撃を受け、たちまちその無謀を思い知らされることになる。

君命を受けた高杉晋作により、庶民も動員した奇兵隊が結成されたのはこの時だ。