身分制度にとらわれないという初めての軍隊「
長州藩に魂を吹き込んだ高杉晋作の「下関の決起」は、これなくして倒幕はなし得なかったというほどの価値があり、長州藩の意志を統一し、はっきりと幕府に対して武力を持って戦う意志を示しました。
「動けば
こう評された高杉晋作と彼にまつわる萩での足跡を訪れてみよう。
萩・菊屋横町に生まれる
晋作の誕生地は、城下町・菊屋横町の一画にあります。当時の間取り図によると部屋数が20以上ある広大な武家屋敷でした。現在は残されている一部が公開されており、晋作の写真や書物などが展示されています。
- 高杉晋作誕生地
- 倒幕への思いを詠んだと伝えられる「西へ行く人を慕いて東行く、心の底ぞ神や知るらん」という晋作の和歌を刻んだ歌碑が建てられています
高杉家のある菊屋横町から2つめの筋にある江戸屋横町には、晋作より6歳年上で長州藩青年リーダーとして活躍した
そして木戸孝允旧宅そばに、蘭学医の
また、この江戸屋横町の南側にある「金毘羅社 円政寺」は、伊藤博文が少年の頃に読み書きなどを習っていたお寺。境内の金毘羅社の軒下には、朱色にぬられた大きく迫力ある「天狗の面」がかけられています。幼き日の高杉晋作は病弱で気が弱く、物おじしないようにと家人にここへ連れて来られてこの天狗の面を見せられたそうです。
松下村塾でのライバルは久坂玄瑞、 師・吉田松陰も認めた負けず嫌い
「藩校明倫館」は毛利家家臣の子弟教育のために開かれた藩校で、上級武士の長男として生まれた晋作は、明倫館で学びました。しかし、優等生でありながら何か物足りなさを覚えていた晋作は、親に内緒で私塾である「松下村塾」へ入門。松陰の広い見識と日本の行く末を憂う先見性に影響を受けていきます。
- 松下村塾(世界遺産)
- 松陰神社境内にある松下村塾。8畳の講義室と塾生によって増築された10畳半の控えの間があり、ここで日本の将来を語る熱い議論が交わされました。
~この小さな場所でたくさんのことを学ぶ~
塾生の多くは下級武士の子か庶民でしたが、やがてこの塾から久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋など幕末から明治にかけて活躍する人物がたくさん出ました。
身分にとらわれずに奇兵隊を結成した晋作の柔軟な考え方、権力に固執しない価値観はこの塾で培われたといえるかもしれません。
ちなみに久坂玄瑞と晋作は「松下村塾の双璧」といわれた二大優等生。松陰はライバルとして二人を競わせることで、当初はサボり気味だった晋作の学力を向上させました。
欧米列強の脅威を感じ、 攘夷を決行
文久2年(1862)晋作は藩命により、情勢視察のため清朝中国の上海へ渡航。そこで、アヘン戦争に敗れ欧米の支配を受ける中国の実情を見ることになります。当時日本は欧米列強の脅威にさらされており、晋作は大きな危機感を抱きます。そしてその年、攘夷を方針とする長州藩の同志とともに、幕府が品川御殿山に建設中だった英国公使館を焼き打ちしました。
“東行”と号し、 萩で隠棲
しかし自らの富国強兵策が藩に受け入れられぬと知るや、文久3年(1863)藩に10年の暇を願い出ました。そしてみずからを東行と号し、剃髪して萩で隠棲します。
「西へ行く人を慕いて東行く、心の底ぞ神や知るらん」
ところが同年5月、藩が下関海峡において攘夷を断行するや起用され、下関防禦を任された晋作は奇兵隊を結成することとなります。
奇兵隊 を結成!初代総督となる
文久3年(1863)当時、尊王攘夷を掲げる長州藩は、下関・関門海峡を通航する外国船(米・仏・蘭)を砲撃しました。その後、下関において外国軍艦の攻撃にそなえるために、高杉晋作は、身分にとらわれず農民や町民も入隊した「奇兵隊」を結成しました。
少ない兵力で敵の虚をつき、神出鬼没、敵を悩まし、常に奇道をもって勝ちを制することから奇兵隊と呼び、身分を中心に編成された封建的軍隊とは異なり、身分を問わず有志の集まりで、力量中心に編成された新しい軍隊でした。奇兵隊は、その後の倒幕戦争においても諸隊の中核として明治維新に大きな歴史的役割を果たします。
投獄の際に詠んだ句 ~先生を慕うてようやく野山獄~
藩政時代の獄舎には、士分の者を収容する野山獄と庶民を収容する岩倉獄がありました。密航に失敗した師・吉田松陰は野山獄に投獄されていましたが、のちに晋作も、京都へ武装上洛する藩士・来島又兵衛の説得に失敗し、独断で京へ上ったため脱藩をとがめられてここへ投獄されました。
「先生を慕うてようやく野山獄」は、安政の大獄で処刑された松陰を偲んでその時に詠んだ句です。
藩政府打倒のため下関で決起!
元治元年(1864)英・米・仏・英の四カ国連合艦隊が、前年の外国船砲撃に対する報復として下関を砲撃します。晋作はその時、野山獄を出て自宅に謹慎中の身でありましたが、四カ国側との講和使節を命じられ談判にのぞみました。
そして同年、禁門の変での敗戦の後 “朝敵”とみなされた長州藩へ追討令が下されます(第一次長州征討)。その頃長州藩内において、幕府に従おうとする勢力(俗論派)が力を持つ中で、幕府を批判していた晋作は「この流れを変えるのは今しかない」と、藩政府を打倒するべく下関の功山寺にて決起します。
「これよりは、長州男児の腕前お目にかけ申すべし」
晋作の呼びかけに応じて藩内クーデターを起こすべく立ち上がったのは約80名、俗論派を倒せる可能性は極めて低い状況でしたが、奇襲で勝利を重ねクーデターは成功。このあと長州藩は「武備恭順」に藩論を統一し、一気に倒幕へと突き進みます。
おもしろきこともなき世におもしろく
晋作は、当時は不治の病とされた肺結核に侵されていました。戦線を離脱した晋作は慶応2年(1866)下関郊外に小さな家を建てて「
晋作は見舞いに来てくれた同志に向かい「ここまでやったから、これからが大事じゃ。しっかりやってくれろ、しっかりやってくれろ」と繰り返したそうです。そして1867年(慶応3年)幕府が倒れるのを見ることなく、27歳8ヶ月の生涯に幕を閉じました。
まげ姿の高杉晋作立志像
高杉晋作誕生地のそばにある「晋作広場」に建立された「高杉晋作立志像」。晋作が明倫館や松下村塾に通っていた20歳頃の若々しく凛々しい顔をイメージしており、両刀を差した羽織、袴の立ち姿です。銅像の高さは1.8mで、台座を含めて3m。晋作といえば「ざんぎり頭」のイメージが強いですが、この晋作像はまげ姿となっています。
市内循環バス(西回り)の愛称が “晋作くん”
萩市内をぐるぐる巡る観光にも便利なバス「萩循環まぁーるバス」。晋作誕生地のある城下町や萩城跡方面をまわる西回りバスは、“晋作くん”という愛称で親しまれています。ちなみに、松陰神社方面をまわる東回りバスは“松陰先生”と呼ばれています。