幕末の風雲児といわれ、時に「暴れ牛」と怖れられた長州藩革命派のリーダー・高杉晋作に対して、血気盛んな若者たちの「兄貴分」的存在として慕われ、暴走しがちな藩のバランス役として、倒幕への舵取りを任された桂小五郎。維新後は、木戸孝允と改名。近代国家の樹立に多大なる功績を残し、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」の一人として称えられています。萩が生んだ若き政治的リーダー・木戸孝允の生涯をたどってみよう!
勤王の志士・桂小五郎、誕生!
萩城下で藩医 和田家の長男として生まれ、のちに藩士 桂家の養子となり、桂小五郎と名乗るようになりました。やがて藩校明倫館へ入学。本をよく読み、習字は師匠を「あっぱれ!」と唸らせるほどの腕前であったといいます。
17歳の頃、明倫館で3歳年上の吉田松陰と出会います。山鹿流兵学教授であった松陰に兵学を学び、小五郎は松陰に「事をなすの才あり」と評されます。松陰とは、師弟というより同志のような関係を育んでいました。松陰の主宰した松下村塾には通っていませんが、門下生たち(久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文など)から兄貴分として慕われ、深いつながりがありました。
江戸での剣術修業、青年剣士として名を馳せる
20歳になった小五郎は江戸の三大剣術道場、練兵館で修行に明け暮れました。そして、メキメキと頭角を現して塾頭にまでのぼりつめます。
当時の江戸は、剣術の修行や著名な有識者を訪ねて見識を高めたいと考える地方の若者たちがひしめいていました。坂本龍馬もそんな若者の一人で、小五郎と龍馬がどこかで会っていたかもしれないという逸話も残っています。
黒船の衝撃が彼に与えたもの
嘉永6年(1853)、ペリー率いる黒船が浦賀に来航すると、小五郎も転機を迎えます。巨砲を備えた巨大な黒船を間近に見た彼は、国を守るためにはどうすればいいかを真剣に考えるようになったといいます。そのとき、小五郎がとった行動は、洋式砲術・兵学・蘭学・造船術など新しい知識をがむしゃらに学ぶことでした。
歴史に残る名言!
龍馬が姉に宛てた手紙に、日本の情況を憂いて「洗濯いたし申し候」と書いた話は有名ですが、小五郎は医者の息子らしく、「手術が必要だ」という主旨の手紙を友人に送っています。
萩藩に洋式船の建造を具申する
徳川幕府は、大名統制のため江戸時代初期に軍艦等の建造を禁止する大船建造禁止令を制定しました。しかし、ペリーの黒船来航の後、幕府は禁止令を解禁し、翌年には萩藩に軍艦を建造するよう命じます。
小五郎は、安政2年(1855)に、軍艦建造の意見を藩に提出し、これらを受け翌年には藩主
萩城の北東3kmの場所に「
不名誉なニックネーム「逃げの小五郎」
能力を買われた小五郎は、文久2年(1862)藩の要職に就き、京都へ出て、長州藩の外交の第一線に立つことになりました。しかし、新選組が尊攘派浪士を襲撃した「池田屋事変」、藩の急進派による薩摩・会津藩との武力衝突「禁門の変(蛤御門の変)」が次々と起こり、長州藩は朝敵となってしまいました。
小五郎は「池田屋事変」が起きた時、池田屋に足を踏み入れていたものの、外出し難を逃れました。また「禁門の変」に際しては、残党狩りに一度捕まりましたが、突然「もよおした」と偽って逃亡を図ります。以来「逃げの小五郎」と言われながら、生来の甘いマスクに泥を塗り、頰被りをして乞食などに化け、活動を続けたといわれています。
久坂玄瑞など多くの同志達が戦いで死んでいく中で、小五郎は現実を直視する冷静さと持ち前の慎重さ、そして「ここで死ぬわけにはいかない。自分がなんとかしなければならない」という強い思いを持って、命を落とすことなく生き抜きました。そして長州の倒幕のリーダーとなっていったのです。
美妓・幾松とのロマンスを育む
京都に赴任してきた小五郎は、長州藩尊攘派の中心として活躍します。しかし新選組から命を狙われる身となった小五郎は、芸妓・幾松に匿われるようになります。幾松は小五郎の危機を何度も身を挺して救いました。そして幾松はその後も潜伏活動を続ける小五郎を支え、のちに小五郎と結婚し松子と呼ばれました。身分の差を乗り越えた大ロマンスでした。
藩命により木戸と改姓。 「薩長同盟」を結ぶ
長州藩で幕府勢力と対抗する体制が整うと、小五郎は慶応元年(1865)藩に帰り、藩政の第一線へと復帰し改革を推進、藩命により木戸と改姓しました。
木戸としての最初の仕事は、敵対関係にあった薩摩藩と同盟を結ぶという大きなものでした。
薩長同盟
長州藩と薩摩藩はともに外様の雄藩でしたが、尊王攘夷を掲げて幕府と対立する長州藩は、幕府側の会津・薩摩藩ら公武合体派と対立し、禁門の変や長州征討等など幾度も戦っていました。
しかし両藩とも、外国の脅威に対して抵抗できない幕府に不満を募らせ、幕府に対抗するようになりました。その両藩の間を取り持ったのが、土佐藩を脱藩した坂本龍馬です。
慶応2年(1866)、龍馬を仲介役として、木戸は薩摩藩の西郷隆盛と「薩長同盟」を結ぶことに成功します。
そして長州藩は、薩摩藩を経由してイギリスから幕府軍と戦うために必要な近代兵器を大量に買い付け、これをもって長州軍は幕府軍を撃破しました。これにより幕府の権威は失墜。さらに、討幕派の公卿・岩倉具視らと「王政復古」を画策し、大号令が出されると、薩長の連合軍は錦の御旗を賜り、一気に倒幕戦争を仕掛けました。
政府官僚として、近代国家の礎を築く
明治になり新政権が発足すると、木戸は総裁局顧問・参与、参議を歴任。以後、五箇条の御誓文の起草に始まり、版籍奉還、廃藩置県といった歴史に残る決断を次々に断行し、中央集権国家の樹立に貢献しました。
廃藩置県と萩城
廃藩置県とは、幕藩体制や封建制度からの脱却をはかるため、明治4年(1871)政府が行った改革です。それまでの藩を廃し、地方統治を中央管下の府と県に置き換えることで、明治政府の中央集権化を目指したのです。
廃藩置県により、萩城は明治7年(1874)に解体されました。当時、藩の象徴である“城”を解体するということは大変なことでした。政府の中枢を占めていた長州藩は、他藩への模範を示すため、率先して城を解体したのだそうです。
また、岩倉遣外使節団に同行した木戸は、西欧の進んだ法制度に着目し、憲法の制定を構想します。しかし、度重なる心労からか病の床に伏し、志なかばで病死しました(享年45歳)。
明治維新に大きな役割を果たし、近代国家成立の礎を築いた彼の偉業は、「維新の三傑」の一人として現在も称えられています。